
ミサキの仕事は、「心臓技師」と呼ばれる特殊な職業だ。しかし、彼女が扱うのは、血を送り出す器官ではない。感情と認識を制御する、人間の胸の中心にある「感情体(エモーショナル・コア)」である。
ミサキの病院では、生きたままの感情体を特殊な樹脂で透明化し、異常がないか検査する。それが「心の透明標本」だ。
ある日、彼女の元に、隣人である画家のハルキから依頼が来た。ハルキは近頃、「世界が灰色にしか見えない」という奇妙な症状に悩まされていた。
「ミサキさん、私の感情体を調べてほしい。どうも、色の部分が壊れているようなんだ」
ハルキの感情体は、通常の標本とは異なっていた。健康な人の感情体は、喜びの黄色、怒りの赤、安らぎの緑などが混ざり合い、複雑な美しいマーブル模様を呈している。
しかし、ハルキの標本は、文字通り全体が冷たい灰色だった。その灰色の中心には、ごく小さな、微細な虹色の点が一つだけ、脈を打つように光っていた。
「これは…」ミサキは解析装置を覗き込んだ。
「ハルキさんの感情体は、『共感(エンパシー)』の色素が異常に薄くなっています。外部の感情を捉える機能が停止している。だから、世界の色が失われたように見えるのです」
ハルキは肩を落とした。
「やっぱりか。私は自分の絵しか愛せない。他人の痛みや喜びを、美しく感じられない。だから、この世界全体が、私にとって価値のない灰色に見えるんだ」
ミサキは静かにハルキに尋ねた。
「その中心の、小さな虹色の点。これは、あなたの感情体で唯一、正常に機能している部分です。これは何の色だと認識していますか?」
ハルキは透明標本に顔を近づけ、その微細な光を見つめた。
「…これは、何だろうな。とても微かで、いつもすぐに消えてしまう。…ああ、そうだ。これは、ミサキさんが、私に向ける、いつも静かで、何も求めない眼差しの色だ」
ミサキは息を飲んだ。彼女のハルキに対する感情は、仕事上の「隣人への心配」と「静かな好意」が入り混じった、自身でも定義できない曖昧なものだった。それを彼は、この小さな虹色の点として認識し、唯一の救いの色として感情体に残していたのだ。
「修理は可能ですか?」ハルキが尋ねた。
ミサキは標本を見つめたまま答えた。
「…いいえ。感情体を物理的に変えることはできません。ですが、ハルキさん。この虹色の点は、外部から入った光です。それは、あなたの『共感』が完全に死んだわけではないことを示している」
ミサキは標本をハルキに返した。
「あなたは、他人の感情を自分の色として認識できないかもしれない。でも、あなたに向けられた感情だけは、認識できる。それが、あなたの心の、かろうじて残った最後の窓です」
ハルキは灰色になった感情体を抱きしめた。
「…ミサキさん。その窓を、これ以上閉ざさないためには、どうすればいい?」
ミサキは微笑んだ。
「私が知っている限り、色のない心臓技師が、隣人に『あなたに向けた眼差し』の色を毎日見せてあげる、という方法しかないでしょう」
ハルキは初めて、灰色の目の中に微かな光を灯し、ミサキに向かって深く頭を下げた。
彼の世界はまだ灰色だった。しかし、その灰色の中心には、ミサキという名の、消え入りそうなほどの虹色の点がある。それは、失われた共感への回路ではなく、唯一残された「愛されること」を認識する窓であり、ハルキが再び色を探す旅の始まりだった。





